みっちゃん物語
私の実家はふとんやでいつも人が出入りし、あまり人見知りしないのはそんな環境のせいでしょうか。昔は赤ちゃんを寝かすのに、幌蚊帳をかぶせて蚊が来るのを防いでいました。
母の話では2歳頃、お店に来たお客さんの話をジ~っと聞いていた私は、急いで奥の部屋に行ってうんうん言いながら幌蚊帳をハイハイして引きずって持ってきたのでびっくりしたと母から聞かされました。よく人の話を聞いて自分ができることはないのか、いわゆるおせっかいはこのころからだったようです。
高校2年の春休み新聞に「孤独死で1週間後に発見された」ニュースに衝撃を受け、なぜわからなかったのか、私の周りにも知らないだけでそんな人がいるかもしれないと思い、翌日市役所に言って一人暮らしの高齢者について聞きました。
春休みヘルパーさんと一緒に老人家庭を一緒に回りました。途中で見つけた「つくし」をもっていくと、「何年ぶりか」と喜んでいただきました。
また高齢のご夫婦は「みっちゃん」とかわいがってくれ卒業まで通い続けました。私が福祉の仕事をしようと思ったのは、これがきっかけです。日本福祉大学に入学したのは1973年、田中角栄内閣が福祉元年と言い出した時でした。
みっちゃん物語2
大学の入学案内を見て父に部落問題研究会は入るなと言われました。友人が部落の出身と打ち明けられた時、もう昔の話と思っていた私は驚きました。なぜ隠すようなことなのかと思いました。
部落問題研究会に入って4年間毎週地域に通ってボランティア。様々な困難が貧困によるものか差別によるものかがわかりませんでした。
このまま差別はなくならないと思っていた時、部落は解放の方向に向かっているという共産党の人の話を聞きました。結婚、職業、居住は自由になっているというものでした。
それなら私でも何かできることがあると思い20歳で共産党に入って、お金があってもなくても命は平等と医療ソーシャルワーカーとして、「部落の女医」の舞台になった診療所のMSWとして誰も知らなかった奈良県来たのは45年間前です。
診療所でも初めてのMSW。生活保護の申請をすると地域の民生委員からなぜ民生委員を通さないのかとお叱り。大学では生活に困った人は誰でも申請できる制度と習いました。
医師不足で経営困難、初めての給料は同じ民医連の仲間が集めてくれたカンパでした。
19床あったベットを廃止した時、当時の婦長さんは、「地域の道が病室の廊下やと思ってんねん。」と自転車に往診かばん「おっちゃん元気か?」と回る姿は地域医療の原点でした。
婦長さんは農村医療で有名な佐久病院から小林綾先生と一緒に来た人でした。